ヲ衰添滞= 方.刃之 -...

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17-08-21; 10:47 ;株式会社ミキモト創征場 ヲ衰添滞= 方.刃之 2帝南洋其珠養猫の始まり .と あこや;真珠養殖産業に買・献した御木本宰吉に対し、南洋真珠養殖産業への貢献では藤田 輔世と去うことになる。 藤田輔世は明治 11 (1878) 12 5日:生まれ、東京帝国大学理科大学卒業、東大付属 三崎臨海実験所の助手として西川藤吉の真珠袋殖の研究に協力した。 あとや貝による真円真珠養殖は、基本技術が確立された後、その技術は急速に進み、た ち主ち重要な産業へと発展したD そんな時期、大正の初め、藤田輔世は日本近海には棲息 していないが、あこや只より数倍大きく、昔から大粧の素晴らしい突然真珠を産出してい る白蝶貝を母貝として使用することにより、大きな真珠を作ることができると考え、研究 を進め、白蝶貝棲息地で真珠養殖を実現したいと考えていた。 大正 5年にはこの考えを主餐合資会社岩崎小弼太男爵の協力を得て、白蝶買による真珠 養殖の調査研究に入札ついにインドネシアセレベス島のブートンで自蝶貝真味養殖に 成功し、あこや真珠謎殖産業より 10 年ほど遅れて南洋真珠産業が歩み始めた。 藤田輔世は「真珠と]起珠貝の義班」を昭和 3年雑誌『科学知識』で著している。その中 で、南洋真珠養剤の初期の動向について、「数年前或る邦人も関係して、和蘭人と共に資本 :か 金百高ギノレダーを以って蘭制印度興味漁業会社を設立し、広大な捕、場を何,て其珠漁業及誕 究' 殖を企てたが、間もなく中絶した。御木本氏は委任統治南岸パラオ府で、烈!牒介で真珠養 殖を経営し、私も蘭領東印度セレベスの一隅で岩崎男爵援助の下にその研究に従事して居 る。向ほ濠州方面にも邦人で英人と共に真珠養殖を試みつつある人があるとの事を聞いた が、確かなことは判らなし、」と記している。 -、 l 南洋真珠の歴史については三菱合資会社に負うところが大であることから、南洋真珠株 式会社支配人公平故彦氏の事業報告書を元に、三菱合資及び三菱商事の社史を参考にし、 南件真珠養描産業の推移をまとめた。 「南洋真珠養殖事業発端 4 9日付三菱社史」大1E 5 年第 23 巻及び大正 9 年第 27 巻によ ると、最初の自蝶貝真野r-養殖試験はフィリピンで行うことになったD 社史によると、大IE5 年西川藤吉が球状真珠の形成法の特許を得たことの説明の後、藤 岡市IH 世と三菱との関係、その後の行動について次のように記している。「この方法をアョヤ 介に応用するに止まらず進んで南洋及帯、州産真珠介(蜘貝)に施して成功する時はその効 果大なるのみならず諸外国人が多大の費用と努力を費やして今尚成功し得ざる事業を完成 するものにして実に国家的ー快事たるを失はず、岩崎小摘末男爵大いに此学を賛し藤田氏 を遣わして南洋各地を視察せしめ遂に比律賓島スノレ一地方を第一候補地と選定し此処に試 験準備を開始することとなれり、大iE 5 (1916) 藤田輔世、西川新十郎(注西川藤吉の 弟)両氏比律賓に先発し 5 3日サンボアンガ市に着く、グレート、サンタクノレス島地方を 13

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Page 1: ヲ衰添滞= 方.刃之 - 日本真珠振興会jp-pearl.com/wp-content/uploads/2018/01/jbooks005... · 抜 第2帝南洋其珠養猫の始まり.と て あこや;真珠養殖産業に買・献した御木本宰吉に対し、南洋真珠養殖産業への貢献では藤田

17-08-21; 10:47 ;株式会社ミキモト創征場

ヲ衰添滞= 方.刃之

抜 第2帝南洋其珠養猫の始まり.と

て あこや;真珠養殖産業に買・献した御木本宰吉に対し、南洋真珠養殖産業への貢献では藤田

ろ 輔世と去うことになる。

藤田輔世は明治 11年 (1878)12月 5日:生まれ、東京帝国大学理科大学卒業、東大付属

た 三崎臨海実験所の助手として西川藤吉の真珠袋殖の研究に協力した。

通 あとや貝による真円真珠養殖は、基本技術が確立された後、その技術は急速に進み、た

ち主ち重要な産業へと発展したD そんな時期、大正の初め、藤田輔世は日本近海には棲息

皮 していないが、あこや只より数倍大きく、昔から大粧の素晴らしい突然真珠を産出してい

と る白蝶貝を母貝として使用することにより、大きな真珠を作ることができると考え、研究

の を進め、白蝶貝棲息地で真珠養殖を実現したいと考えていた。

は 大正 5年にはこの考えを主餐合資会社岩崎小弼太男爵の協力を得て、白蝶買による真珠

女 養殖の調査研究に入札ついにインドネシアセレベス島のブートンで自蝶貝真味養殖に

は 成功し、あこや真珠謎殖産業より 10年ほど遅れて南洋真珠産業が歩み始めた。

珠 藤田輔世は「真珠と]起珠貝の義班」を昭和 3年雑誌『科学知識』で著している。その中

パ で、南洋真珠養剤の初期の動向について、「数年前或る邦人も関係して、和蘭人と共に資本

:か 金百高ギノレダーを以って蘭制印度興味漁業会社を設立し、広大な捕、場を何,て其珠漁業及誕

究' 殖を企てたが、間もなく中絶した。御木本氏は委任統治南岸パラオ府で、烈!牒介で真珠養

少 殖を経営し、私も蘭領東印度セレベスの一隅で岩崎男爵援助の下にその研究に従事して居

つ る。向ほ濠州方面にも邦人で英人と共に真珠養殖を試みつつある人があるとの事を聞いた

て が、確かなことは判らなし、」と記している。

-、

lさ 南洋真珠の歴史については三菱合資会社に負うところが大であることから、南洋真珠株

式会社支配人公平故彦氏の事業報告書を元に、三菱合資及び三菱商事の社史を参考にし、

南件真珠養描産業の推移をまとめた。

「南洋真珠養殖事業発端4月 9日付三菱社史」大1E5年第 23巻及び大正9年第27巻によ

ると、最初の自蝶貝真野r-養殖試験はフィリピンで行うことになったD

社史によると、大IE5年西川藤吉が球状真珠の形成法の特許を得たことの説明の後、藤

岡市IH世と三菱との関係、その後の行動について次のように記している。「この方法をアョヤ

介に応用するに止まらず進んで南洋及帯、州産真珠介(蜘貝)に施して成功する時はその効

果大なるのみならず諸外国人が多大の費用と努力を費やして今尚成功し得ざる事業を完成

するものにして実に国家的ー快事たるを失はず、岩崎小摘末男爵大いに此学を賛し藤田氏

を遣わして南洋各地を視察せしめ遂に比律賓島スノレ一地方を第一候補地と選定し此処に試

験準備を開始することとなれり、大iE5年 (1916)藤田輔世、西川新十郎(注西川藤吉の

弟)両氏比律賓に先発し 5月 3日サンボアンガ市に着く、グレート、サンタクノレス島地方を

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17-08-21;10:47 ;株式会社ミキモト翻I場

米人Mo Fie氏名義にて借用し実験室を建設し採介船を使用して生介の漁獲に従事し

或は他の採介船の漁獲物を購ひ専ら真珠介の施集に努め 7月 12日小)11平三氏(注京大三崎

臨梅実験助手として務める)赴任と共に真珠形成法の施術を行ひ其結果を検査し大体好成織を

得たり、大正 6年 2月実験室を引きょげサンポアンガ:市に移り 5月帰朝す、爾来小川氏

合資会社査業課にあり専らパシラン島企業に努力し藤田氏は臨海実験場に在り研究に従事

す」。

尚上記社史による藤田制n世等の詳しい旅程について、 4月 9目玉It京発、 11日神戸出帆基

院を経て南支海岸より香港経由でマニラに向かい 6月上旬マニラ若となっている。

大正 5年 (1916)最初に着手したフィリピン スルー地方の養殖実験所は、その後継続

することをあきらめ、関領印度(現インドネシア)を調査し、大正 9年 (1920)セレベス

島のブートン島に新たに養殖場を設置する。養殖場変更の理由について、公平氏の『自蝶

貝袈見事業の概要』によると、「技術上に於いては必ずしも失敗ではなかったが、彼地法制

よの事情並地理的環境等のためJとなっているが、実際は元南洋真珠(株)の池田氏が『白

蝶員真珠の生いたちの記一昭和 54年 5月Jに治安」ニの問題が大きかったと記されており、

また、十分な母民資源も期待できなかったようである。

養殖場をブートン品に決めた理由について、大lE9年 5月 17日付けの同社史によると、

「セレベス島の東南端ブートン島は海苗範囲狭少なるも海上平稿、潮流緩和、区域恰当(注

適当)、漁船低l緑、賃金低率、土人柔j頓等の諸条件のほかマカサー(注マカシサル)に近き

こと、所用母介あること、綿、場を独占しうること等候袖地として略理想的なるJとある。

藤田、セレベス知事、ブートン土主との間で漁業権に閲する交渉が行われ、大正 9年

(1920) 3月、藤田制世とブートン自治権者との問に漁業許可契約が締結される。

許可条件の一部内容を記すと

1.向とう 10ヶ年間ブートン自治州沿岸3裡以内水深5尋以上の海中に於いて真珠介

真珠母介及海参の専用漁業棟行を藤田l陥世に許可する

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2.許可に対し漁船一隻に付き年 360盾(注ギルダー)古を納める、倶し漁船は5隻以 z 内とす i

3.真珠介殻売買一方盾超過額に対し其の 10%を納むること

4.専用漁業権者が適当の方法を以って標示する区域内水深 5尋以上の海中を放義区

域とし此所に於いて土人の其珠漁業を禁止すること

5.草盈1キアケイ州以下の真珠介をも採取し得ること

6.モーターエヤーポンプを潜水機に使用するを得ず

7.海岸に於いて必要なる家屋を建設し:得ること

S. 収漉真珠には税金を賦課せざること

9.本椛・利は許可後 3ヶ月以内に事業に若手せざるときは効力を失うこと

合当時の換算で 470円くらい、別の資料によると、普通の人の稼ぎが 1自1・1同 50飽くらいと

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F

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17-0ト21; 1 0: 47 ;株式会社ミキモト鯛工場

事し あるので、年俸に相当するか、普通の人の具体的職業は不明

三崎 H キアケイの重量単位は不明

設を 大正 10年 (1921)3月養殖地をブートンの北 10湿のカンプナに決定する。ここはもと

11氏 もと母貝が棲息しており、海底の状況、湖の流れ等良好で、同地採取母貝の育成状態も申

定事 し分なく、その上、沿岸には 200町歩余の農耕適地があり、 9月より桟橋、施術室等の

諸工事を開始し、仮小舎で施術を開始する。

l}L;甚 大正 10年 (1921)o月23閏採貝船アンナ号を以って初出持、し、大正 10年9月にブート

ン沖に放延する。真珠形成唱については裳殖の日が浅く推測することは難しいが、現在ま

での数回の屠殺試験によれば真門真珠ば生存介数に対し 1剖はほぼ柿実と思われ、半径真

\I~i統 珠については 2割以上確実であったようである。しかし、母介採取区域がブートン島、ム

ペ只 ナ高周辺に限られていた為、後日母介不足に悩まされることになった。

当却~ 出J出池田実『白蝶真珠生立ちの記』によると、「大正 12年 (1923) より本格的に試験に

去制 ・ 着手したが技術の問題で計画は大幅に遅れ、技法に郁信ができたのは昭和 2年 (1927)に

「白 なってからであった。昭和 5年より量産体制に入札その声価を欧米市場に問うべく藤田

) '1 ._ ・ 氏はこれをカフス釦等に加工のうえ携帯し渡米、次いで英国に赴いたが船中でノイローぜ

になり巴阜で静袈の後帰国したが回復せず、南洋真珠の最盛期を見ることなく逝去せらて

】と、 た」と記している。

(注

をき 既述のように、大正9年 (1920)3月蘭領印度政府より漁業権を得たことにより、三菱

川 本社の下に「鳳教真珠裳殖試験所Jを発足させる。その後の組織の充実について、公平氏

}年 ) 報告容は次のように記している、「藤田輔世氏(病を獲て昭和 6年死去)小)11平三氏を始め

従業員協力一致して措据研鍛の結果大:iE13年 (1924)頃半円真珠、昭和 3年 (1928) よ

り球形の養殖其珠の生産奏功して市場に提供し得るに至るや果して大型厚質等の優秀なる

来介 品質は具常なる声価を呼び爾後技術の進歩による品質の改善向」ニと生産量の増加と相侯つ

て本企業の見込み立てたるをもって昭和 7年従来の木社直営を改め本社出資の下に南洋真

隻以 珠株式会社及同社出資の下に鳳敦真珠株式会社を設立し;本事業一切を81継経営することな

れり J。

詫区 南洋真珠株式会社と鳳敦挺珠株式会社(三築社史昭和 7年3月 17日)

三謹合資会祉総務課所管の「風教真珠養殖試験所」の事業を継承するため、昭和7年3

月17日南洋真珠株式会社を設立し、 4月1日から業務を開始する。

I商号南洋真珠株式会社

I目 的莫珠義知:事業に対する投資

真珠、真珠介(介殻を含む)海参の売買、加工、仲立、問屋、代理行及右に

いと 付帯する事業

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17-08-21;10:47 ;蹴鋭~H~繍I場

I資本金参拾高円(一株50円、四分のー払込)

I役員常務取締役伊藤信愛

取締役大越政虎

同 小川|平三

監査役佐藤梅太郎

同 釘津一夫

尚6月南洋真珠株式会社は蘭領来印度における事業揚j胤敏真珠養殖試験場の組織を現

地法制上の必要の為変克し風教真珠株式会社設立の許可を得、 12月手続き完了する。

I商標鳳議真珠株式会社(和蘭商法による株式会社)Boeton Pearl Co., L凶.,

Boe七onParel Maatschapij N.V.

I目 的真珠介の採取、真珠の幾殖並に売買

I資本金 拾玉階居(注ギノレダー) (一株額面 100席全額払込済、株式の全額を南洋真珠

株式会社にて所有す)

I*庖閲領爪喧(誼ゾヤヲ)スラパヤ

I事業所領セレベス ブートン(鳳政真珠養殖場BoetonPearl Cultul'e StationjBoeもon

Celebes, D.E.I.)

I役員取締役小川|平三

同 伊藤 信 雲

監査役釘揮一夫

同 川樟 勝 雄

岡 村松 巌(兼鳳,敦真珠裳殖場長)

)1;乱故真珠株式会社に於いて生産したる真珠を南洋其珠株式会社にて買入れ販売するも

のとす

尚、昭和 12年 7月付け公平氏報告書の 2社の役員名は次の通りになっているので、昭和

7年の創立時から役員の人事移動があったものと思う。

南洋真珠株式会社

常務取締役服部 郎(三菱商事取締役兼雑貨部長)

取締役大越政虎(三笠本社監察員)

同 小川平ニ

監査役谷田友治(三菱本社監察員)

同 釘機 央(ニ菱商事会計部長)

支 阻 人 公 平 織 彦

鳳敦真珠株式会社

取締役小川平ニ

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17-08-21; 10:47 ;株式会社ミキモト鯛I場

|司 村松 厳(殺鳳敦真昧養殖場iJ::)

同 伊藤恒一(注メ 号 寄 さ 事 務 長 )

臆査役谷田友治

問 宮 本 丘 = た

同 菅原照消(注メ モ 書 き 技 術 者 )

容を刑事業が碗立されたことにより、真珠の養殖と販売の会社がそれぞれ設立され、養殖

E現 場の充実が急務となってきた。養殖試験場設立後、菅原照清氏が京都大学白浜臨海実験所

h の研究助手を辞して大正の末期に赴任したD 藤田輔枇の卦昌世氏は、あとや貝真珠誕殖の

技術開発に従事し大きな業績を残した後、大主 13年4月から京都大学付属臨湖実験所用地

内で、本格的に淡水真珠義猫の研究を開始している。実験所長は京大三崎臨海実験所で西

川藤吉の下で兄輔世と研究を共にしていた川村多実二氏であったことから、史,験所は異な

王珠 るが菅原氏l土川村多美二、藤田輔世、昌世兄弟の関係でブートンに赴任したのではないか

ど恩われる。菅原氏は後続技術員の指導にあたる。昭和 7年頃より技術員の増員がはから

れ、養殖場の発展を担った。これらの控術員ば菅原氏を筆頭に右川イ五平、岩城博、池 静、

~ton 鈴木直次などで、各氏は戦後南洋真珠事業が再開すると各養殖場で指導者として活躍、二

の蔵業発展に貢献し、今回ある南洋真珠産業の礎を築いた人々である。幸い筆者はこのう

ちの数人と面織があり、多くの貴重な教えを受けた。石川伍平氏l士、水産講習所の恩師妹

尾秀実教授が藤田輔世氏の学友であったことから、事業の発展に伴い要請されて赴任した

とのことであるE

前掲公平氏の報告書に南洋真珠、鳳敦真珠両社創立以来の利益金の資料と共に当時の市

場動向が次のように載っている。(後掲の池田氏作成、ブートン珠及びパラオ珠採取明細参

るも 照)

昭和 昭和 7年度

昭和 S年度

南洋真珠手u益金

3,755.89

64,661.89 (配当年八分)

鳳,敦真珠利益金(年末レートにて換算)

1.299.10

4,311.56

(2,4.51.13)

(8,799.10)

昭和 9年度 66,884.49 6,456.62 (15,372.90)

(配当年1.制 5分)

昭和 10年度 59,353.24 4,642.16 (11,118.94)

(配当年 1割)

昭和 11年度 24,096.80 7,099.17 (13,718.20)

(無阻)

合計

6,207.02

55,862.79

82,267.39

70,472.18

10,378.60

白蝶養殖真珠(遊離真珠)の真価は今や欧米各国に於て認識せられ葱数年間に於て日

本あこや真珠が生産の過剰と販売の不統制により 3割乃至 5割の値下りを見たるに不拘

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17-08-21; 10:47 ;脳会社ミキモト,翻I場

我白蝶真珠は前記の如き品質の優秀と相侠って生産販売共に独占の地歩を占むる関係上

却て値上りの傾向を示しあこや真珠に比し 5倍乃至 10惜の市価を有し 1頼数千円の価あ

るもの敢て珍らしとせず

半径其珠は介般の内部に生ずる半球形の真珠にして介殻質の裏打ちをなして商品となす

遊帥真珠に比し価格低廉なるを以て亦欧米市場に歓迎さる真珠を採取したる後の介殻亦

1ピクノレ(普通介 70乃至 100介)王拾円内外の市価あり(中略)

凧軟に於ける養殖技術の進歩は真珠歩留率、 2塩死串等に大なる改善の跡を示し自然的

条件に支配さるる事多分なる事業なるにも不拘極めて安全串を以て原価採算を為し得。る

にいたれり

一方販売方面に於てほ前述の如く白蝶真珠の真価認められたる今日に於ては内外商人

が争・って当方珠購入に努むる状態にして常に品不足に苦しむ状態なり

南洋真琢'株式会社パラオ養殖場開設

既述のようにブートンにおける南洋真珠の養殖、販売事業は順調にきていたが、やがて

養殖の根幹をなす十分な真珠母貝の柿保が難しくなってきた。技術者の石川伍平氏による

と(真珠ビジネス 20号 1994)水深15フィート(約 27メートノレ)での採貝について述ベ

ているが、現在の酉豪州での採貝は 15m前後の深さであることから考えると、相当深い海

で採貝していたととになる"探いととは採員ダイパーにとっても非常にきつい労働であり、

総獲効率も思いことを意味する。その上、既述の知く I蘭領印度政府の真珠養姫許可条件の

中に、資源の枯渇を避けるため、モーターエヤーポンプを潜水機に使用する ζ とが禁止さ

れており、常水作業は極めて厳しかったことがうかがえる。

その結果、「母貝採取量は、年間で l万貝を超えたのは 1回きり、ほとんどは 7-8000貝

にとどまり、それも全部使えるというわけでもなくとにかく貝は貴重までした。」と右川氏は

述べている。当時の養殖規模でも年間最低 2万貝くらいの採貝が必要であったのではない

かと思われる。したがって、ブートンでの生産拡大を望むことは難しくなっていた。

南・洋真疎は市場で認められ、大きな需要があることが分かったことにより、新しく養殖

場の開設が計画された。

安定した事業とするために、母貝の法息地である外闘で行うのでは多くの制約があり、

国際関係、割高な生産経費等の問題を考慮し、自国の領土内で行うことが求められた。

調賓の結果、新しい設殖場として、地理的条件の似た岡本の旧委任統治領パラオを好適

地と定めた。しかし、この地に白蝶貝は桜息していないので、当時採貝船を持ち真珠貝採

取事業を営んでいた丹下悩太郎氏(注初めてアラフラ揮で採貝専用船を使用し白蝶貝の摂取事業を

始める.後の母船式真珠貝採取船団事撲の礎となるe第 S輩真珠良採取監諜参照)に依頼し、昭和 10

年 (1935)ニューギエア南方アノレー島方面より生きた母貝を移送してもらう。諸々の試験の

結果提殖の見込みが立ち、 10月パラオ群島コローノレ島に事務所を設置する。年間 2万 5000

貝の受け入れを目標とし、本格的に施術を開始する。三の時の技術者は石川If五平、和国連

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17-08-21; 10:47 ;株式会社ミ相,割E場 # 7/ 9

係上 ・ 二、池静、*周の諸氏である。

間あ 生産は昭和 12年から始支り、プ一トンでの減産分を補うにほ十分であったという。また、

品質ーもプ一トン珠に劣らないのみならず、優良品が多く産出し航る好評であったとのこと

なず である。

殻亦 しかし、養殖場は広くなく限られており 、作業貝数が増えるにしたがい、密殖による影

響があらわれ、貝の衰弱と鱒死が増え、期待したようにはならなかった。生産量について

然的 は別表参照。

得る パラオに南洋真珠株式会社が進出したのを機に、閣内の真珠裟刑業者、御木本、佐伯、

堀口の三社が養殖許可を得て養殖試験を開始するが、試験の域を脱せず、事業化には至ら

商人 なかったロ

.

UK

戦争による事業閉鎖

昭和 16年開戦によりブートン養殖場、パヲオ袈殖場は3:12に中断され、敗戦と共に閉鎖さ

れた。ブートンでの養航中の員は、昭和四年目本軍がインドネシアを占領したことにより、

岩城博、鈴木直次両氏によって全部誤揚げされた。

ブートン養殖場の職員!.::i:オーストラリアに抑留され、パラオ養殖場でほ職員の引き上げ

が始主るの

前掲池田実氏のブートン球、パラオ珠販売実績のまとめによると、創業以来解散までの

売」ニ累計ーは明らかではないが、記録が残っていた昭和 8年 (1933)から 12年 (1937)の5

カ年間の平均売上高は 212,383円であったので本格的に生産された昭和 7年より 16年の

10カ年間の売上累計は 200万円(当時 1ドルば大体3円台)を超えたものと推定されると

.... -の。。

|義嫡

(注 筆者・lま生前の池田氏とは面識があり、経理を担当していたと聞いていたので具体的な数字の資料を

保持していたものと思われる)

,り 、

ブートン珠及びノ4ラオ珠採取明細(池田実作成)

年 次 ブートン珠(匁) パラオ珠(匁) * 割-昭和 6年(1931) 400 400

7年 (1932) 1,100 1,100

8年 (1933) 3,930 3.930

9年 (1934) -1,215 4,215

10年 (1935) 4,145 4,145

11年 (1936) 5,340 5,340

12年(1937) 4,650 1,800 6,450

13年 (1938) 2,970 2,800 5,770

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ωの

調

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Page 8: ヲ衰添滞= 方.刃之 - 日本真珠振興会jp-pearl.com/wp-content/uploads/2018/01/jbooks005... · 抜 第2帝南洋其珠養猫の始まり.と て あこや;真珠養殖産業に買・献した御木本宰吉に対し、南洋真珠養殖産業への貢献では藤田

17-08-21;10:47 ;嗣会社ミキモト,翻工場

14年(1939) 2,700 3,150 5,860

15年 (1940) 2,400 2,250 4,650

16年 (1941) 2,880 900 3,780

18年 (1943) 6,000 5,000

JEh 3 計 39,730 10,900 50,630

(注) 一部推定を含む(注補足寄き)

池田氏は11U掲苔の中で、南洋真珠の生みの親であり養殖事業を推進した三氏について次

のように記述されており、第三次大戦の傷跡がここにも影を落としている。

「藤田輔世氏殉職(昭和 6年)

小)11平三氏昭和 18年セレベス局で戦死

松村縦氏 昭和 17年シンガポーノレでit民死

は央々思いを残して故人となられ、又東京でこの事業に協力された伊藤信愛氏(墜

落死)。綿貫勝造氏(戦死)も不慮の死を遂げられたのは偶然とのみ云い難い何かが

あるやに思われ、今はただ冥植を折るのみである」。

御木本真珠パラオ義描場

上記表践の資料があるが、資料の出所が不明のため参考として主な箇所を一部取り上げ

て記すロ

大正 11年 (1936)5月、小J11新三郎をカロリン群島パラオ諸島ロローノレ島(元甫洋庁所

在地)に派遣し、既に邦人がマベ、クロチョクガイの採捕に当たっていた権利を買収

し、また、コローノレ島周辺の装殖漁業権の免許を受け、本格的な事業として開始した。

事業所在地 南洋群島パラオ島ロローノレ町2了間アラバケツ 901番地

施術工場はコローノレ島より 10余町海を隔てたガランゴーノレ島(無人

島)にあるが、他の施置はアラパケツの一区画内にある。

歴代主任、小川l新三郎、大主 11{f::..._..大正 15年 (1926)

小串次郎、昭和 12年 (1937)-B?3和 15年 (1940)

* シロチョウガイの施術用母貝はi置か遠洋よりダイパーポートにより採摘して

持ち帰ったものを購入する。昭和 10年 3-5月購入実績は 5941貝、平均 3

* クロチョウガイの現地生息数は少なく、昭和 14年 5月 15日から 20日間コロ

ーノレ島の8村からの購入実績は 6778貝、平均 5銭 (2-20銭)

* 内地産アコヤガイを 2固に亙って試験的に移送する。同条件の貝を玉ヶ所湾

養殖場に罷いて比較したが、結果は不明

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17-08-21;10:47 ;株式会社ミキモト鯛工場

二の資料は元御木本の社員の方にみせて頂いたもので、社員の先輩が社内の関係資料か

ら作成されたとのととである。昭和 6年からの白蝶貝、昭和 7からの黒蝶貝の施術員数な

どが載っているが、数字の根拠となる説明がなく、不確かな数字と恩われるので敢えて記

載を携えた。

ブートン養殖場より若干遅れて南洋真珠誕殖に着手したようだが、実際の施術開始、

最初の浜掛、その後の母貝集荷、施術、撰揚げの記録等ないことは残念である。

しかし、既述したように、南洋真珠パラオ養殖場の成果が芳しくなく、同業他社(御木

、て次 木、堀口、佐伯)ばもっと良い結果が得られなかったと思われていたので、御木本パラオ

と(監

可かが

7上げ

判デ所

E買収

J たE

(無人

出して

平均 8

間コロ

ヶ所湾

養殖場の事業は試験操業の域を出なかったのではと思われる。したがって上記の資料には

生産に閲する記録が記されていないのではないだろうか。

尚、昭和 12-15年まで主任として勤務した小串次郎氏ば、昭和 13年『真珠の研究』を

著わしている。

* *

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