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講演 ω 夫のひねくれた肯定から健全な肯定に至るためには れだけによって万物が説明できるかのような論じ方。実際 に、第二の肯定に至るためには、空という否定の原理の他 に、⢕쪌슂착肯定の原理が必要です。 ーー空という概念の暖昧な使い方、 l 空の思想だけに左右される宗教の三点です。 さて、空の思想に対する私の批判を四つの項目に分けて行 いたいと思います。 一、空の思想を正しくつかむのは、我々凡夫にとって不可能 この話しでは、三十年前から日本に住んでいる一人 として、仏教の空の思想に関して悩んできたととを正 て、皆様のご指導を仰ぎたいと思います。それによって自 の無理解を披露することになりますけれども、後の討論の種 空の論理の独走ということ㪂뮂 ꪑ厕狽얂ꂂ솂쒁䆂サ になりますように、なるべくその無理解に、空の思想への攻 撃という形を装わせるごとにしました。 では、空の思想に対して「悪魔の代弁者」⢌沁末をする つもりですが、誤解されないように冒頭に次のことを明らか に言っておきたいと思います。 一、宗教を始め、実在の全体的ダイナミックスにおいて空が 非常に大事な役割を持っているということを、私は仏教、 または京都の哲学から教えられてきましたし、キリスト教 の神学もその点では仏教から大いに学ぶべきです。我々凡 夙コ ニ巳 前掛 ホ目 i v 二、私の「攻撃」の的になるのは、ただ、 いう否定の道を通過しなければなりません。 ⵍ䵍䵊 ブラフ 楬ⴭL f z E ⴴ-

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夫のひねくれた肯定から健全な肯定に至るためには、空と

れだけによって万物が説明できるかのような論じ方。実際

に、第二の肯定に至るためには、空という否定の原理の他

に、(別個の)肯定の原理が必要です。

ーー空という概念の暖昧な使い方、

ーl空の思想だけに左右される宗教の三点です。

さて、空の思想に対する私の批判を四つの項目に分けて行

いたいと思います。

一、空の思想を正しくつかむのは、我々凡夫にとって不可能

この話しでは、三十年前から日本に住んでいる一人の外人

として、仏教の空の思想に関して悩んできたととを正直に語っ

て、皆様のご指導を仰ぎたいと思います。それによって自ら

の無理解を披露することになりますけれども、後の討論の種

空の論理の独走ということ:それが全部であって、そ

になりますように、なるべくその無理解に、空の思想への攻

撃という形を装わせるごとにしました。

では、空の思想に対して「悪魔の代弁者」(検事役)をする

つもりですが、誤解されないように冒頭に次のことを明らか

ll

に言っておきたいと思います。

一、宗教を始め、実在の全体的ダイナミックスにおいて空が

非常に大事な役割を持っているということを、私は仏教、

または京都の哲学から教えられてきましたし、キリスト教

の神学もその点では仏教から大いに学ぶべきです。我々凡

夙コニ巳

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、私の「攻撃」の的になるのは、ただ、

浄いう否定の道を通過しなければなりません。

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に近いことです。

二、空の思想だけでは、人間の実存を理解するのに不十分で

す。

三、空の思想は、仏教という宗教の十分な土台になりません。

四、空の思想は社会的活動の裏づけや動機づけになりません。

ー空の思想を正しく掴み、健全に取り扱うのは不可能に近

いことです。

前もって言っておきますが、この話を準備する際、山口益

氏の『空の世界』(註一)を読みましたので、再三それを引用

することになりますが、それはあくまでその書物を空の取扱

いの代表的なものとして見ているからで、決して山口氏を特

別に批判したいからではありません。

さて、私の一種のテ!ゼに成りますが、空の思想というも

のは、意識のより高いレベルで見られるような、深い智慧の

表現であると私は認めます。しかし悟りを得ていない衆生に

とっては、その智慧を正しく把握し、健全に適応するのは不

可能に近いということが、仏教の歴史によって実証されてい

ると思われます。私にそういう印象を与えたものを簡単に指

摘しますと、およそ次のようなものになります。

一、まず明らかにされないのは、空の思想が形而上学的説、

すなわち存在するものをあるままに説明するようなもので

あるのか、それとも、「我執をなくし、解脱を得たいなら、

そういうふうに考えなければならない」という、実用的な

真理を提供するものであるのかということです。お釈迦様

は形而上学的な説に触れないとたいてい言われるし、龍樹

も、『中論』の中で、「転倒せる人の邪執を止滅するために、

一切法無なりと説く」と書いている。そして、もし前者な

ら、その真理は論理的に把握できるのか、それともその把

握には「行」が必要であるのか。

もう少し簡単にいえば、仏教における「無我」(ロ

の説の意味は、無我執

十それに導くような考

え方を育てることに尽きるかという質問になります。

二、多くの場合、空または無二の立場は、当然のように、優

れたものとして議論に出されます。具体的にその考え方に

どういう長所、どういう良さがあるかを説明しないで、

「一つであるだけで優れている」という、証明を必要とし

ない前提として取り扱うことが一般的ではないでしょうか。

たとえば、善悪の分別、自他の区別の否定の良さが絶えず

強調されますが、具体的にその良さがどこに存するのかと

ういことを説明してくれる文章には滅多に出合いません。

こういう論じ方は一種の独断、いわば「空の独走」に導く

のではないでしょうか。というのは、具体的に分析します

と、空の思想の良さの他に、その短所や限界もあらわにな

るのではないでしょうか。 (

SEamomω)

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ii

ii

三、また不監の論じ方において明らかにならないのは、空

がすべてであり、また辻すべての終着点(目的地)である

のか、それとも空む思想が道であるのかということです。

すなわち、ある金言浅いのな弁証法の隅石として、一臨すべ

HS

てを批判し、空ずるもむとして通過すべき過程であるのか。

OD

問、告に、空む思想の嘘昧さの要因が色々あると思いますが、

ま、すそり実慨として…一一一一の点を挙げることにしましょう。

久松氏むように、窓の論理を単なる否定の道として莞

る入もおれば、それが部地的側耐と同時に脅定的部面をも

合むと強調する入もいます。

上田義文氏によりますと、空というものには〈宗主吾川

き仏可印刷凶え。吋

と一一一一日うご一つの次元があります。す詰

けい

わち、(静的)同一の次元〈相矛盾するものの自己間二と

(動的)転回の次元ご方を他方に転換させる欝き〉。それで、

「色臨是空」「生死即ネハン一とは、一方で高麗端の可逆的

同一を表わすと同時に、前者の後者へむ不可逆的運動を指

すことになります。(註二)

!ー次に、長尾雅人先生の言葉を挙げたいと患います。

「空とは決して単なるニヒリズムで誌ない。::・:かえっ

て、空は、そこから仏陀の懇悲の欝きが流れ出る源泉であ

るー〕と。(註…一一)

最後にほとんどの空に関する話では明らかにされない

点として挙げたいのは、「窓の思想〕が無ニの論理なのか、

それとも不一不二の論理なのかということです。

五、空の患想の不断の論じ方に対する私的不満をもう少し論

理的に言い表そうとしますと、ぞれが松本・袴谷両氏が最

近出している批判とある程度合流することに気がつきます。

と言うのは、私も、仏教における空の思想と一替われるもの

の捉え方には、大ざっぱにニつの、お互いにだいぶ違うよ

うな、それぞれの長所と短所があるような、轍向が尭られ

ると患います。しかし私は、こちちは仏教だ、そちちは仏

教ではないと言いたくないし、言う資接もありません。そ

の代わりに私が強く批判したいのは、そのこつのとちえ方

そ暖昧に混、ぜること、そして自らの捉え方にはその詣方の

長所があると主撮することなのですむしかし実擦に、その

混乱を避けるのは極めて難しいとは患います。

空の嫌々な捉え方を自分なりに整理してみますと、およ

そ次のような閣式ができますむ

1

1

一方、空〈窓口司法ととは、告我を始め、すべてのこ

元的なもの、実体化されたも的、拠り所になるもの、執着

の対象となるものをことごとく正義

〕していく

ような、純粋に杏定的運動のことです。そして、この抑え

方では、ものが否定され・死な--されたのち、どうして蘇る

かということは直接に問題とされません。

ーー隼刀、もう一つの空の翠え方を、傾向として一言で特

徴付けるならば、おそちくそれを「空自体が拠り所になり、

OU

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-6-

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'

復活の原聴になる」という言葉で指摘できるので誌ないで

しょうかむしかし、この捉え方は微妙な

設立 03を見せ

Mdsaneze

ると患います。まず空は、すべてのものがおかれである場

読とか基体とかのようなものとして、一種の口同州

民主含

夕、

ロZUωの性格を見せますが、まだ自分の中

におかれてあるものに対する作用的関係には或りません。

しかし、「如来蔵」、「仏性、「本来の自己」と連想され

ると、空は一議穣盤的なもの、活動的なものの性格を警び

るようになります。この空が、本来善であって、少なくと

も普へ、解脱への可能性として、ややもすれば、自黙にそ

の可能性を成就していくカとして、衆生を「後ろから押し

てくれる力」として考えられてきます。ぞれがフルに蕃へ

のカや動きとしての姿をとるおは、もちろん開弥陀如来の

本瀬においてでしょう。

mg

ここで一世悶えると思うりは、純料に否定的な空に対して、

Hmg

後者のとらえ方には、それぞれの段暗によって、「空」と

雷われるものには多少の有的な要素が合まれてくるという

ことの倍に、やはり空という概念の内容が多様的ですので、

筋の遜った話をしたい場合では、どの空の概念を使うつも

りかをあらかじめ明らかにし、途中で別のとちえ方に移ら

ない必要があるということです。

ついでにですけれども、少し袴谷・松本氏たちの批判と

合流しましたので、誤解されないように、おそらく彼ちと

た「讃極的要素」は

松本氏たちが営われる連れソ

空の

と反対の

ハ有の込山

355ωと言えるもの〉

l

瀧う私の考え方を明ちかにする必要がやめるでしょう。簡単

にまとめますと、

仏教の震史において、「単に否定的空」に加おってき

金言語仙の

ω

苦言語貯

ω

に窮しています。

ーーしかし、仏教も、空の仏河口言誌の ωがどんな記大切であっ

ても、空の

εロ岳民訟に尽きないし、それに違えできませ

ん。すべて存在するもの、神をも入れて、無の

認め

2

と有の身ロ 922の総合であると思いますり従って、仏教

の中に現れる「有的なもむ〕はそれだけで非仏教的とは常一

えません。それらが仏教的であるかどうか安判断するには、?

弼の尺度が必要です。

空の患懇は、我々人間の菓棒的実存的経験・自覚後分析

し、理解するの記不十分です。

山口益氏の「空の世警に依りますと、空・無一一の論理は

個人の認識的自覚を分析して、それ告主客・能一・黙のこ元的な

Eものに還元して、その二元性の不実在性そ明らかにします。

そして、確かにそのレベルでは主も客もその関係を離れて間

借のものとして穿夜すると言えませんし、そり主と客との間

に本当の他性を立てることほできません。このレベルでは、

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~

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ウ心が清ければ、習が請し」という命題は完全に当たります

が、あいにくこの世の本当の経験からしますと、その命題ほ

ど紛らわしいもの法あちません。

と言うのは、哲学的現象学が教えているように、人間の実

存的・自覚というものは、単に主・客の関

に還一光できず、そ

Z

の他に、根本的レベルにおいて、少なくとも次の要素が含ま

れています。

E

「言葉」(言葉を離れて自覚はない〉とともに「我と汝い

の関係(人聞の自覚辻強我的誌もので誌ない〉。そして、ここ

における他性は構単に無二誌とちえ叢すことはできません。

決してただの客ではない〉身体の畠賞、そしてそれを

通じて世界の自覚。まとめて雷いますと、仏教の怯統的な

空の思想の視野に入らないものが島ります。すなわち、

「我と汝」の関係とともに人間社会そのもの、また鶴入の

身体とともに物資界。そして、その額壌においてこそ本当

の地性は成立します。

時間の都合でこの抽象的な骨組みに実例の丙を惹せること

はあまり出来ませんが、一つだけ挙げますと、秋月氏との対

話の中で、人間に対する神の他者性・対抗性を論ずる特に、

八木氏は、自然にと雷いましょうか、担人ではなく、共毘体

〈教会)に対する神の話をします。(そして、ついでに、仏教に

は本当の「教会議」八

口町

論〉はないと指揮されます)(註毘)

mm

問題の所在地をつかむ

には、「具体的人間とは何か」と

いう問から入るのが礎科かも知れません。その尚北関して、

根本的に二つの互いに矛議する苓があると思われます。それ

はすなわち、一方は龍誇禅師の「無位の翼人いという答(空

の立場での具体的人陪と震えましテっか〉、そして他方はマルク

スの「どこまでも躍史と社会

ι条件づけられた人間」という

答です。その両方とも、一法対の立場から見ると再び抽象的な

ものになります。そめ三つをどう罵立させたらいいかは私に

はわかりませんが、人照会呉捧性がその一方だけに尽きると

は設えないと岡山います。

窓の思想は単独で仏教という宗教の十分な土きになりえ

ません。

これに関する私の問は、たとえば次のような彰を譲ります。

空の思想というものは、果たして釈尊が舎言言。(誌〉とい

う言葉で指した意味内容をすべてカバーするでしょ,っかと。

もう少し具体的に言いますと、玉城先生がよく「ダンマ誌露

班わになる」と言っていますが、そり特に原始仏教の意践でダ

ンマという言葉を使っているのか、そしてそれが空の思想と

どう関係するむかということです。

しかし、議論の種になるように、私の無期柚解をまたチ

の形に言い草しましょう。

C

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一、単に否定的空では不十分であるということは、大乗の歴

史においてそれに様々な積極的な意味合いが加わってきた

という事実によって実証されていると思います。

二、空の思想は、どんなに変態しても、本来否定の論理、智

慧の論理、向上・入山(往生)の道であって、再肯定、慈

悲、向下・出山の道にはなりません。仏道そのものが入山・

出山というこ重の動きからなっているのは誰も否定しない

でしょうし、大乗においては智慧と慈悲とが平等の重みを

持つと強調されますけれども、実際に仏教の哲学、すなわ

ち空の思想は、向上の動き、智慧の道に集中して、それを

立派に基礎"つける代わりに、出山の道、慈悲の動きに余り

注意を払わないで、それを裏づけることに失敗していると

思われます。というのは、出山についての話はほとんど詩

的な表現で済まされて、少しも具体的な理論 l

たとえば、

在家の日常生活にふさわしい倫理ーになりません。

それは仏教の教学者の歴史的偶然の手落ちと恩われるか

も知れませんが、私に言わせますと、慈悲の道(倫理、社

会生活など)のそういう軽視が空の思想の本質に由来して、

その必然的結果になっています。

三、空の思想では、慈悲は(演揮をもって)智慧から推論さ

れますが、そうすることによって慈悲は必然的に智慧に還

元され、従って歪曲されることになります。それを少し例

証するつもりで山口氏の出している慈悲の様々な「定義」

の中から二つだけ挙げましょう

「我執我所執の煩悩が打

破せられる:::こと以外に、慈悲せられることはありえな

い」、「空である慧が、限りなく空に背いている我執我所

執なる有を対象として、それを空じ、打破するときに、大

悲であるのである」と。(註 5)少しひどい話ですが、大

悲のその「定義」は、私に何となくヨーロッパの宗教裁判

ロ)のことを思い出させます。異端者を殺すこ

とは、その人の中の悪を打破することで、その人に対する

(F2525

最高の愛の働きだと。日本仏教で常識になっている言葉遣

いを、その歪曲のもう一つの実例にしましょう。すなわち、

慈悲・利他の話が出ると、それがすぐ「教化」という言葉

に言い直されるのが普通です。そして、教化とは明らかに

悟り・智慧に導くことで、完全に精神や宗教の領域の中に

留まり、物質や世俗に出るものではありません。この点で、

横田俊二氏の文章を引用しましょう。「真宗においては従

来、慈悲という概念が(狭く、輯神的意味での)救済のコン

テクストで理解されてきたということは明かである。・:

慈悲という概念は、そういうコンテクストから移され、社

会的・倫理的関、佐セも含み得るようなものに拡大され得る

のだろうか」(註六)と。

それに対してもう一つのテ!ゼを出したいと思います。

すなわち、誠の慈悲は、ただの空・智慧から出てきません。

慈悲というものは、それを初めから、積極的なものとして、

-9-

c

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-ル

*

知恵とは別のものきとして、認めないと、いつまでも出てき

ません。又他者を本当の他者として認めない摂与、本当の

緒川悲は考えられませんと。

h

また観点を変えると、ある宗教が社会活動の本患の動機

付けになり得る

ιは、その宗教が教済というものを、ただ

62yoF

精神的なもの、心の清めの問題ではなく、ハ身体をも合めて〉

入国全体のものとして晃るということが必要欠くべからざ

る条件の一つになっていると雷えるでしょう。

ちなみに、伝統的な仏教には慈悲の十分な理論が待在し

ないということをもっとも籍感する者は、おそちく西洋人

の仏教徒ではないかと患われます。それ北関する多くの証

言の中からただ一つ選んで、尽きれ貯のoor氏がこの京都

で行った発一一一日を引用しましょう。民は、四谷先生の

2一小教

とは向か

に対する高い評留を見せてから、次のように一…諮っ

ています。「今必要になったのは、〈智慧の仏教学を謹供した〉

G

吋也市教とは伺か叫に次いで、それと同じレベルの力や微妙

を持つような、歴史の改善への具体的コミットとしての慈

悲の仏教学京間

問えの。宮℃普段。乙である」〈註

七)と。

呂、同じ問題を少し別の観点から毘ますと、次のようにも言

えると思います。仏道のニ重の運動の土台と考えられる空

の窓想そのものには、その一つからもう一つへの転換を裏

付ける力、智慧を慈悲に転回させる力はありません

論理

に一…畑中えば、それに熊理があって、へ

ゲルの用語を措りる

なも、それを無蝶介的転換〈き〈。吋

Ezzst

学的拡蓄えば、単なる奇定から禽定は生まれません。ある

ところまですべてを否定した空は、どうして突然肯定の服

理に成り祷るのでしょうか。衆生を解説へ導いた空は、設

らを再び苦の苦界へ送り返す動績を自らの中に見つけるの

でしょうか。今まで善悪の分別を越える原理であった控は、

どうしてある瞬間から善の勝利を鎖うようなものになるの

でしょうか。

やはり、空の思想安哲学的に活かそうとする京都哲学は、

「絶対否定は、弁証法的転換によって、絶対肯定に生まれ

変わる」ということを前提としていますけれども、議理的

としか見ることは出来ないと思います。

空の思懇は、社会的活動的原動力・動機付け誌なりませ

ん。wこ

の脱は、もちろん、今まで論じたものの中にすでに含ま

れていると言えます。簡単に震えば、社会的活動への動機誌、

なんと言っても、誼接に、智慧よちも態悲の方、入山よりも

串山の方にあるでしょ・つ。しかしながら、世界中で多くの仏

教徒がちょうどこの開題に踏まされているという事実からし

ますと、この点に特別に言及しても無理ではないと思れれま

HEgM

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一10-

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-. . .

すむc

iつまり、話洋の仏教徒連の中でこの問題意識が一番強いと

は言っても、それは東洋でも、この

本でも所々形を取って

きました。と言うのは、日蓮関係の新宗教ばかりで誌なく、

読成仏教の色々な宗採の中でも、(特に若い〉熱心な仏教徒の

一部は何となく、宗教人としての岳分には世界の改鶴

より

正義のある人間社会、大自黙の汚染を避けるような生活様式

など

の為に尽くす義務があると感じて、たとえば発麗途上

昌を援助するグル!プを作っています。そして、その入達が

自分の宗教の中にそういう活動の動機付けを求めようとして

も無理ではないと思われます。

B

しかし能方、去年のこの大会の場で「禅は社会活動と関係

ない〕という意味の発一一さがあったということは皆様の記憶に

残っていると患います3

確かに、空の思想かちしますと、そ

の発一一告が非常に一嘉吉むなもの、ごもっともと一一諮問おざるを得

i

ません。なる母ど、この立場からすれば、一心そ浮くさえす

抗ば、世界が自然に浮くなる一と言うだけでことはお詑舞で

あるいは、山口益段をまた引題すれば、「仏教の実践の

価慨は、〈実践者の〉薄めの道:・:という一点にある一という

ことなります。

それでも、仏教徒一鞍も、自分の心を清浄にしても、エチ

オピアの人々は相変わらず銭死してしまって、後らを救うの

には外的・社会的活動が求められるという州選酬を量認めると思

います

そうであるとすれば、問題は次めようになるのでは

ないでしょ・っか。空の患想か・りして、仏教は社会活動と関係

ないと認めざるを縛ないけれども、仏教には、空の思想と拭

別に、社会活動を裏付けるような立場は江いでしょうか。仏

教における懇悲こそそれであるのではないでしょ っか。その

場合は、もちろん、空む思想を通じて解釈された慈悲ではな

く、いわば仏教における主的慈悲、本生物語に霊場するよう

な蛾謀、一

慈悲の仏教学}のことでなければなりません。

確かに議抄な問題と患いますけれども。仏教における鯨悲

というものが単に智慧に還元できないもの、智慧と不…むも

のと雷われても、仏教における悲悲と智慧とは貰いに無関孫

とは決して震えないでしょう。しかし:議に部外者の愚かな

質問とは患いますが

仏教の「智慧」というものは必然的に

無の智慧に尽きるものでなければならないでしょうかの

仏教の智慧に母、空の立場と一緒に有の立場を入れると、必

ず執着が生じ、解践的可能性が失われることになるのでしょ

うか私

誌これまで(わざと〉大変攻撃的な話をしてきましたが、

e

誤解を避けるため記この辺で改めて明ちかに詰って重きたい

おは、この批判の対象が決して空の思想そむものではなく、

c

j

ただ次のところにあるということです。すなわち、

私が

一空の独走一と名付けたいこと

それが全部であれソ、それだ

i

l

w

i

一日一

c

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-. けで万物が説明できるかのように説くこと。説くに宗教を、

仏教を空の思想に還元しようとする考え方。

仏教の伝統

的な理論における、智慧と慈棋とのアンバランス。ーーやお

概念の暖昧な接い方と、それにたいてい伴うこと、すなわち、

自ちが取り扱っている積極的なものが空かち流れ出るかのよ

うな論じ方。

しかしなが込、京教というもりの全体的な身

いおにお

いて、・空の思惑が非常に大事な、掛け欝えのない役新号持っ

ているということを、私は、おそちく日本での長い滞主む結

mwa225

果、雄信しています。それは、西洋において、キリスト教に

おいて、誌とんど自覚されていない ζ

とですが、これからむ

キワスト教が仏教から、または京都哲学かち学ぶべき大切な

i

i

ことに瀧いありません。私のこの積極的な話がただの外交的

ZS

「空輸」でないことを証明するつもちで、空の患想のその大

事な役目を、一一一つの韻域においてだけ鰭単に指摘したいと思

います。

一、業教と倫理(特に社会倫理〉との関係において。宗教は

確かに論理・社会・世間に出る誌、ずですけれども、京教的

活動・実践というものは罰時に、世間からの距離を前提と

しています。禅定なしの社会的

は宗教的実裁にな

り得ません。ある意味で替惑の分割を越えない倫理は宗教

的道になり得ません。

二、「我と汝一と誌互いに相手を他者として認めることです

けれども、それには自他の区制がない場から出ることが前提

になっています

キワス卜教的に言えば、隣人に対する愛は、

我と汝を平等に摂取する神の愛を前援をしています。

三、四洋では、神はほとんど単に有かちだけ考えられてきま

したが、仏教の空の思想や京都哲学の絶対無の論理から明

らかになったもの辻、神に関して、そして特に神と人間の

関係に関しては、有と同時に無・空も考えなければならな

いということです。

まとめて設えば、宗教を姶め、ものを健全に考えるの記、

有の思想だけでも、空の思想だけでも不十分で、有と無との

棄の総合へと進まなければならないと、私は、深く礎宿してい

ます。窓

の患患と浄土教

今度は仏教の中の大事な一円である牟士教に集中すること

になりますが、この辺では私む頭になんとなく次のイメージ

が浮かんできます。このころ新開などのマスメヂィアではよ

く「パップル経済〕という一冨識が捜われるでしょう。で、大

乗仏教における宗教的発展に従って、空の思想と品一一同われるも

のはそり内容をますます豊富にして、空の接念はが

りぎりむ

ところまで延ばされてきましたが、浄土教においてそのパッ

G

プルはついに場発してしまう:::というイメージ。

C

-12-

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さて、急の印象に過ぎないでしょうか、浄土教の専門家、

特に真宗学者の書いたものを見れば、彼らの弾力の大部分が、

浄土教の宗教性そ空の服組に選一沌しようとすることに捧げら

れているようです。しかし、今まで一言われたと ζ

ろから十分

伺えるように、私に言わせますと、そういう還元はどうして

も不可能なことですから、その偉い努力は摂本的にムダ遣い

としか考えられません。そうしますと、真宗学者がどうして

G

その努力を必要だと患っているのかその理闘がもちろん問題

になります。それは、だいたい、「仏教〈とりあえず大競仏教〉

の本質は窓の思想だ。命工一教も仏教であるという ζ

とを十分

明らかにしなければ:::」というような考え方からではない

でしょうか。

しかし、また怠に言わせますと、「仏教の本震」という表

現に正当な意味があるとしても、空の思想が弘教の本質であ

ると諒一概に言えません。それからもう一つ、宗教という罷

史的運動には、「物」〈り設ものように、一枚岩の本質という

ものがあるわけで誌ありません。仏教の中のどんな宗派の場

合でも、それをそういうふうに考えられた「本賞」には還元

できないし、還元する必要もありません。また自らの独自性

を援す必要もありません

宗教学的に〈客観的に〉見れば、真宗という京教は、一方、

製本的にそして内面的に弘教で、仏教の怯統ζ

そ真宗の深さ

や純幹さの掠向釈であると一審えます。従って、多くの西洋人

えちれます。皆様は、六i七年前からお西の佐々木正典、大

〈仏教学容をも入れて〉の印象、すなわち「それは仏教で誌な

く、むしろ…穫のキリスト教ではないか」という印象は間違っ

ています。しかし地方、真宗は自らの中に、大乗の本涜とも

言われる「聖道

どには見えない、または潜在的にしか存在

しないような、宗教的衝動を舎んでいて、それらを大繁一般

のそれらと総合して、独自的宗教的形態〈

を形成し

ているとも冊目わざるを得ません。

そして、持土教の宗教性のそういう独自的要因は、どちら

かと雷いますと、空・無二・無相よりも、・有・対抗性・有桓

の方であると一一言えましょう。

正直に私の受けた印象を諮りますと、改のようなものにな

ちます。滞士教が宗教である限り、特に仏教でるる悶り、そ

れにおいて空の論躍が大きな役割を演じているはずですけれ

ども、しかし、その宗教のすべてを空の論理で説明しようと

することによって、空の思想というもの誌浄土教にとっては、

一種の拘束服とか足かせになっているのではないでしょうか。

き土教の生の宗教性、とりあえず大乗の中に浄土教を特徴ザつ

ける要臨は、それらを強く曲げないと、その中に入り難いと

患います。

しかも、それが単に学期的教学のレベルに留まるなら、無

警め戴れと見のがしてもいいかも知れませんが、実擦にはそ

れが教団の信心生活にその影響を及ぼしていることが充分考

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.

村英昭氏たちが、伝道院紀要などで書いているものをご覧に

なったと思いますが、彼らは「現場不在の教学!教学不在の

現場」と嘆いてきましたでしょう。その断絶の原因は様々で

しょうけれども、教学者が、浄土教の独自的宗教性をある程

度無視しながら、「聖道門」の哲学にこだわるということが

その一つではないでしょうか。

これに関連して、「浄土教は在家仏教だ」ということが問

題になるような気がいたしますc

つまり、私にとって非常に

信じ難いものの一つは、よく言われるように、空の思想を徹

c c

底するハンニャハラミッタ経を生んだ初代大乗が在家の運動

であったということです。このお経はまさに凡夫の自覚を無

視して、もっぱら悟りの天辺を描写しているのではないでしょ

うか。凡夫は本当にそのお経における仏と衆生、シャパとネ

ハンとの無二について行けるのでしょうか。

むしろ逆に、浄土教というものは本当の在家仏教で、おそ

らく世界仏教の中で唯一の在家法円であって、それにおいて

こそ浄土門のもっとも重大な意味があると恩われます。そう

いう関連から、教学者は信徒一般、在家の信心生活や宗教性

及びその直接の表現をどれくらい尊敬しているのでしょうか、

という聞が自然に私に湧いてきます

すでに何回も引用した山口氏臼く

「真宗の人は阿弥陀仏

の本願を:::浄土真宗別途の教えのようにいいなろうている

けれども、・::・それは決して別途な法ではない。仏教思想と

.

.

しての、いい換えれば、仏性の展開における当然の体系なの

である」(註八)と。それに私もある程度まで同意できると

思います。と言うのは、(大乗)仏教には二つ、白と黒のよ

うに、相対立する運動が存在した訳ではありません。すなわ

ち、一方は、もっぱら因果、縁起、空、自力による解脱を主

張するもの、そして他方、積極的なもの、有相、仏の人格性、

他力による救いを主張するものです。実際、仏教のほとんど

の形態は、その(観念的)両極端の聞に、自分なりに、それ

ぞれ違った劃合で、その両方を取り入れるようなものであっ

て、そのスケールの上に浄土教というものが、単に一番右に

位置するに過ぎないと言えるでしょう。

しかし、仏教学者の真宗信徒であった山口氏も、多くの真

宗学者と同じく、大乗仏教一般と浄土教との連続性を過剰に

強調しているのではないでしょうか。阿弥陀如来の本願の不

思議、またはそれに出会った法然や親鴛の解放感を無視して

もいいでしょうか。つまり、浄土教は、衆生に内在的で、解

脱への可能性

(BZE巴として登場した仏性と共に、そこ

からよく導き出された「全面肯定の楽天主義」を否定して、

改めて無明のフルな暗さを認めたもの、そしてその代わりに

解脱の可能性と共にその実現を他者の力、他力に依頼したも

のではないでしょうか。そこにこそ浄土教の独自な

色。や

宗教性があって、それと仏性の思想との非連続性が、それが

純粋な空の思想と仏性の思想との非連続ほど深くないと思わ

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-•

れるとしても、かなり深いと認めざるを得ないと思います。

そこからして、真宗学者の努力が、その非連続性をなくし

て、一再び解説の力、仏性の他者性を否定する方向に向かって

ましテつ。

いるという感じはします。少し主

Y05505の震い方ですけ

救済の業が成就するのに、どこまでも互いに他者であ

れども、噂ねたくなるのは、「先生拭荷によって救われると

思いますか。自分に対抗している開弥陀の磁力、すなわち懇

悲の地力によってですか、それとも自分と阿弥詑如来とめ無

ニを培った知恵によってですか」と。議妙な論理によってそ

均二つを向一視することができても、京教性としてそのこつ

の問に相変わちず徴表的な違いが残ると私誌信じます。

この余りにも攻撃的な話を、もう少し和解的な調子で終わ

らせたいと思います。現象学的に、浄土教もキワスト教もや

はり「教溝教」であって、両者に共通の宗教的論題が多いと

思いますのしかし、その同じ論題の取扱い方になりますと、

キワスト教においてそれちが主として有の論理はよって論じ

られてきたのに対して、準土教においては、それがやはり仏

教の中に育ったものでるるだけで、その論じ方には空の論理

がより強く鋤いてきたに違いありません。そして、そこにこ

そキリスト教にとって学ぶべきところがあると患われます。

li

そこから学んで、キリスト教の神学は詔分の、その論躍に関

一一

する説を訂正し、深めることができると思います。逆に、浄

土教もキリスト教かる学ぶことができるのではないかと思い

cg

ますが、その判断は浄土教の方々に任せたいと患います。よ

Mgi

り穣極的なこの話を別的機会に残さざるを得ないと患います

が、今のところでは二つの実棋を簡単に挙げること

ι

る神と人間とが、本当の意味で一つにならなければならな

いという論題を深めるために、真宗の「接法一体」などお

教えは大変参考になると患います。

倍仰の本当お主体誌私ではなく、私の中の監霊だとい

う教えに関しても、毅驚聖人の信心に関する考え方から学

ぶべきところが多いと思います。

ご静聴を深く感謝いたしますが、後ほどの討論の時に反撃

ii

安惜しまれないように切に願いたいと患います。

〈註〉一、山口益、「空の世界匂東京、理想社、一九八一一一合員七)。

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二、ペ。

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Hgab-おお∞参照。

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呂、八木誠一十秋月龍浪、「タンマが露わになるとき町東京、

背土社、一九九宝一一一部 tiw一塁頁。

五、定エの世界』、二一一一頁。

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八、認エの曹界代一一八頁。

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